桜は数限りなく詠まれ また多くの物語にも登場してまいりました。
今回は桜にかかわる近代の物語です。明治以降に発表された、桜に因む物語をご紹介します。
前回[桜に魅せられし古人たち… 桜のものがたり vol.02]では、古事記、万葉集から西行、兼好を経て芭蕉、宣長ら江戸時代に至るまでの文人たちが、桜を通して、いかに人世の無常や美の本質を探求しきたかを詩歌を中心に探ってみました。
今回からは、日本人の心に根ざす桜観が、古人たちから近代の作家たちへどのように変遷したのか、そして作家はどのように考え桜をモチーフに、あるいはテーマとして、ものがたりを紡いできたのか辿ってまいります。
このページ【桜の近代小説 その1】では、小泉八雲から梶井基次郎まで、日本の著名な作家たちが桜をどのように描き、どのような意味を込めたのかを探ります。儚さと美しさ、生と死、そして日本人の心の奥底にある桜への思いを、文学作品を通じて紐解いてまいりましょう。
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小泉八雲:『乳母桜』『十六桜』、異邦人ハーンを捉えた桜の民話
■小泉八雲(こいずみ やくも=Patrick Lafcadio Hearn・パトリック・ラフカディオ・ハーン・1850年 – 1904年)
明治29年帰化・新聞記者・探訪記者・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。
小泉八雲のニューオリンズ時代(1877年から約10年間)や、当地での著書 “Lafcadio Hearn’s Creole Cookbook” (「ラフカディオ・ハーンのクレオール料理本」)などについては、こちらのページ。
▶ オクラのネバネバ[小泉八雲とクレオール料理本と…]
▶「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のクレオール料理本」
『怪談』( Kwaidan)
■『怪談』(かいだん、くゎいだん、英: Kwaidan)
1904年に出版の怪奇文学作品集。八雲の妻、節子が話す日本各地の伝説、幽霊話などをもとに、新たな解釈や構成で綴った作品集。17編の怪談が収められている。
『怪談』(Kwaidan)には 「うば桜」に関する民話がふたつが収められています。
『乳母桜』(Ubazakura)と、『十六桜』(Jiu-Roku-Zakura)です。
どちらも伊予松山(愛媛県松山市)の大宝寺に伝わる身代わり説話によるものです。このような名木伝説は全国各地にあるでしょう。
大宝寺の「うば桜」はエドヒガン(江戸彼岸) です。エドヒガンはウバザクラ(姥桜、乳母桜)とも呼ばれます。
『乳母桜』(Ubazakura)
『乳母桜』は、日本の民話を基にした物語で、桜にまつわる伝説を描いています。物語は、伊予(現在の愛媛県)に伝わる名木伝説を背景に展開されます。ある村に住む乳母が、愛情を注いで育てた子供の命を救うため、自らの命を犠牲にするというお話しです。
乳母の祈りが通じ、彼女の命と引き換えに子供は助かり、村人たちは彼女の献身を称えて桜の木を植えます。この桜は「乳母桜」と呼ばれ、毎年美しい花を咲かせ続けます。その花は、乳母の愛情と犠牲を象徴するかのように、桃色と白色が混ざり合い、まるで乳で潤った乳首のようだと表現されています。
300年前(現在からでは4〜500年前か)伊予国温泉郡朝美村に徳兵衛という富裕な村長(むらおさ)がおった。40になっても子供に恵まれなかったが、村の寺の不動明王に願かけて、娘を授かった。
露(つゆ)と名付けられた娘は、お袖という乳母に助けを借りて美しい娘に成長した。
お露は15の歳に、医者が見放すほどの大病を患う。乳母お袖の、21日間に渡る不動明王への祈願で、お露は快復する。その翌日お袖は息を引きとる。実は、お袖は自身の命と引き換えにお露を助けてほしいと、不動明王に祈願したのだった。
願いが叶えられれば、感謝の印として、寺の庭に桜の木1本を植えると約束をしていた。徳兵衛夫妻は探しつくせる限り最高の桜の若木を植樹した。その桜は250年間毎年、2月26日に美事な花を咲かせ続けた。2月26日はお袖の祥月命日である。
以下は『乳母桜』の結末部分。
— and its flowers, pink and white, were like the nipples of a woman’s breasts, bedewed with milk. And the people called it Ubazakura, the Cherry-tree of the Milk-Nurse.
そして、その桜の花は、桃色に白く、まるで大人の女性の胸の乳でうるおった乳首のようでございました。そして、人はそれを乳母桜、つまり、乳幼児に乳を与え守る乳母の桜の木と呼んだのでした。
(【新訳】怪談 / 湯浅卓(編訳)より)
『十六桜』(Jiu-Roku-Zakura)
伊予の国和気郡(わけごおり)に、「十六桜」と呼ばれる桜がある。毎年1月16日(陰暦)当日にだけ咲く。十六桜春を待たずに、大寒の頃に咲くのは、ある人間の魂が宿っているからである。 この桜の木、伊予のある侍の屋敷の庭で育っていたもの。開花も3月末から4月にかけての当たり前の時期であった。
その侍、幼少の頃は桜の木の下で遊び、桜を褒めたたえる和歌を書いた短冊を、枝にぶら下げる行事も、先祖から100年以上に渡って続いていた。侍は歳をとり、子供達には先立たれ、その桜のみが彼の愛情の対象となってしまった。
ところがある夏の日、その桜が枯れ死んでしまう。
隣人は彼の心の慰めとなればと、美しい桜の若木を彼の庭に植えてくれた。全身全霊で老木を愛でてきた侍には、それを失った代わりに、心の支えになるものは、何一つなかった。老侍はその桜木を甦えさせる方法を思いつく。
「身代わり」になるというのだ。桜の枯木の下で、白い布を広げ、更に敷物を敷き、その場所で武士の作法にしたがって、「腹切り」をする。
彼の魂は、木の中へ入り、同時刻、花を開花させたのでございます。そして毎年、その桜の木は、一月十六日、白い雪の季節に今もなお開花するのでございます。
出典:(【新訳】怪談 / 湯浅卓(編訳)より)
樋口一葉 :『闇桜』に映るせつなくも儚い悲恋
■ 樋口一葉(ひぐち いちよう1872年/明治5年 – 1896年/明治29年)
小説家。 東京府第二大区小一区(現・千代田区)内幸町生まれ。戸籍名は奈津、夏子とも書く。私塾「萩の舎」主宰の中島歌子(なかじま うたこ)に和歌、古典を学び、東京朝日新聞記者半井桃水(なからいとうすい)に小説を学ぶ。
1892年デビュー作『闇桜』を、桃水が創刊した『武蔵野』に発表。 生活苦により住居を転々、1894年本郷区丸山福山町(現・文京区西片)に移り、小説に専念し『大つごもり』『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』『たけくらべ』などの代表作をわずか1年半で執筆。『たけくらべ』は、雑誌「めざまし草」の合評欄で森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に絶賛されるも、 25歳(数え年)で肺結核により死去。 現在、高評価を受けている『一葉日記』原本は、没後100年以上樋口家に秘蔵されていた。
『闇桜』
『闇桜』は一葉の処女作。儚い少女の命と散りゆく桜が重ねあう幼なじみの淡い恋。
園田良之助22歳。中村千代16歳。幼馴染、兄妹のような仲好し。 ふたりは2月半ばの夕暮れ時、連れ立って摩利支天の縁日に出かけた。 其処で千代の学友たちに「おむつましいこと」と声をかけられ、千代ははじめて良之助への恋慕の情を自覚する。
しかし良之助は気付かない。千代は病に伏せ、日に日に衰弱してゆく。 良之助がはじめて千代の深い思いを知るのは千代が息をひきとるその日である。
見舞いに来た良之助の眼にも今宵限りの命と見えた。千代に促され帰ろうとする良之助に 『お詫は明日』 とか細い声。 夕闇の中に桜の花がほろほろとこぼれ、哀しく響く鐘の音が聞こえる。。。
風もない夕闇の中で桜の花が静かに散り、鐘の音が哀しく響く情景と、報われない恋と桜の儚さを通しておもう人生の無常、切ない恋です。
物語はこう↓結ばれています。まさに作品名「闇桜」に結びつく描写です。
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風もなき軒端の櫻ほろ/\とこぼれて夕やみの空鐘の音かなし
(かぜもなきのきばのさくらほろほろとこぼれてゆふやみのそらかねのねかなし)
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(上記「/\」は「くの字点」です)
谷崎潤一郎 :『細雪』に描かれる平安神宮の桜
■谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう1886年 – 1965年)
明治末期から昭和中期まで活躍した日本を代表する小説家の一人。
自ら主張する「含蓄」のある文体で、日本的な美を耽美的に描いた作品が数多くある。「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」など、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た傑作を多く残している。
ノーベル文学賞候補に7回以上なるも受賞ならず。日本芸術院会員。1949年文化勲章受賞
唯一の長編『細雪』は戦前から雑誌掲載が始まったが、軍部から掲載中止命令、私家版出版も禁止された。戦後、昭和23(1948)年に完結。
『細雪』
■『細雪』は、大阪の没落しつつある旧家・蒔岡家の四姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子を中心に、昭和11年から16年まで(※作品中には年号の表記はありません)の関西上流社会の四季折々の生活、。伝統と近代化の狭間で揺れ動く人間模様がが織りなす長編小説。
物語は、三女・雪子の縁談を軸に進行し、長女の鶴子、次女の幸子、四女の妙子がそれぞれの恋愛や結婚に向き合う姿が描かれます。
雪子は30歳を過ぎても未婚で、蒔岡家の誇りから多くの縁談を断ってきましたが、妙子の駆け落ち事件で家の名誉が傷つき、家族は新たな縁談に乗り気になります。
四姉妹は、それぞれの性格や価値観の違いから、時に衝突しながらも、家族の絆を深めていきます。古き大阪の情緒とモダニズム、時代の変化に翻弄される人々の姿が鮮やかに描かれています。繊細な心理描写と絢爛なものがたり絵巻が展開します。
物語の中で、「京洛の春を代表するもの」として描かれる平安神宮の桜は、八重紅枝垂桜(ヤエベニシダレザクラ)。
あの、神門を這入って大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を蹈み入れた所にある数株の紅枝垂(べにしだれ)、―――海外にまでその美を謳われていると云う名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。谷崎潤一郎『細雪 01 上巻』:新字新仮名 (青空文庫) ・十九 より
上の場面から年月が過ぎ、日本は不穏な空気が漂う世相を迎えていました。。その様な時局の折にも平安神宮へ向かい、しみじみと風雅に桜を愛でるのでした。↓この「足音を忍ばせながら花下を徘徊する」場面その年の9月に、日本は三国同盟に調印し軍事同盟に加わります。そして翌年12月、日本軍はハワイのアメリカ太平洋艦隊の拠点を空襲しあの戦争に踏み込んでいったのです。
そして、次の土曜日には貞之助の発議に従って、夫婦、悦子、雪子の四人で一と晩泊りで京都へ行き、兎も角も吉例の花見をしたことであったが、今年は時局への遠慮で花見酒に浮かれる客の少いのが、花を見るには却って好都合で、平安神宮の紅枝垂の美しさがこんなにしみじみと眺ながめられたことはなく、人々が皆物静かに、衣裳なども努めて着飾らぬようにして、足音を忍ばせながら花下を徘徊する光景は、それこそほんとうに風雅な観桜の気分であった。
谷崎潤一郎『細雪 03 下巻』:新字新仮名 (青空文庫) ・二十四 より
谷崎潤一郎 細雪 下巻
晩年の谷崎潤一郎は熱海に移り住みますが、その庭には平安神宮の枝垂桜からの稚木を譲り受け育てていたそうです。
芥川龍之介:『或阿呆の一生』に映る桜の憂愁
■芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年- 1927年)
日本の近代文学を代表する作家の一人です。東京市本郷区に生まれ、東京帝国大学英文科在学中の1914年、処女小説『老年』を同人誌に発表。1915年『羅生門』、1916年『鼻』が夏目漱石に絶賛される。その他『芋粥』など初期作品は⽇本の説話から題材をえたものが多い。
中期には同じく説話を典拠とするものの、芸術至上主義的な作風が目立つ。『地獄変』『邪宗門』(未完)など。晩年は説話ものから離れ、私小説や告白的自伝なども手掛ける。『一塊の土』『大導寺信輔の半生』『点鬼簿』『歯車』『或阿呆の一生』など。晩年の代表作『河童』は人間社会の痛烈な風刺と批判を通じ問題提起と、彼の自殺動機を探るうえでも重要な作品。命日7月24日は「河童忌」と呼ばれてる。
『或阿呆の一生』
■『或阿呆の一生』は、友人久米正雄に託された遺稿で、51の短い断章からなる短編。龍之介の自殺後に雑誌『改造』に掲載発表されました。
『或阿呆の一生』では向島の桜を評して「花を盛った桜は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂鬱だった」と自身の心象風景を重ねるように描写しています。主人公が感じる人生の虚無感や憂鬱さ、あるいは内面的な苦悩を映し出す役割を桜は演じているのでしょうか。
四 東京
隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂欝だつた。が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。
芥川龍之介 『或阿呆の一生』 (青空文庫)より
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宇野千代:『薄墨の桜』に潜む清純と醜怪
■宇野千代(うの ちよ、1897年1 – 1996年)
作家、随筆家、着物デザイナー。山口県生まれ、1914年岩国高等女学校卒業。1921年処女作『脂粉の顔』で懸賞短編小説一等入選。1936年女性ファッション雑誌『スタイル』創刊。『おはん』『生きて行く私』『色ざんげ』『八重山の雪』などの作品がある。勲二等受勲。1996年(平成8年)没。享年98歳。
『薄墨の桜』
小説の『薄墨の桜』は美事な花を拡げる樹齢1500余年の名木、岐阜県根尾谷のエドヒガン、淡墨桜(うすずみざくら)に想を得た創作。昭和46年〜昭和49年に雑誌「新潮」に分載され、昭和50年単行本として刊行された。
宇野は昭和42年、小林秀雄の紹介で根尾村の「淡墨桜」(うすずみざくら)を見に行き、物語をしたため、その保護を訴えて活動したことも知られている。
根尾谷の淡墨桜は昭和34年9月の伊勢湾台風で、枝葉をもぎ取られ相当なダメージを負い、無惨な姿となっていた。宇野千代はその痛ましい桜の様相を、寄稿文『淡墨桜』として雑誌「太陽」(昭43年)に発表し、その老桜の救援募金活動も始めた。その熱意に岐阜県知事が動き、生物学者の診断、再生策がまとめられ、3度の根継ぎが成功して蘇生した。現在は全国各地に淡墨桜の子孫樹が植樹されている。
* * *
物語は、着物デザイナーの吉野一枝が無惨な老桜を蘇らせるために奔走し、見事な花を咲かせることに成功する。この薄墨の桜が縁で、料亭の女将高雄、美しい養女芳乃と関わりを持つようになる。さらに吉乃の恋人が登場し複雑な人間模様が展開される。薄墨の桜の精があたかも醜怪と美貌を併せ持つような、妖しい桜の精に翻弄されるが如く物語は進んでいく。根尾谷の淡墨桜は蘇ったが…美しい娘芳乃は悲劇の結末を迎える。
下の引用は吉野一枝が初めて根尾谷の淡墨桜と対面するシーン↓。全く華やかさのない、霞んで見えるだけのぼんやりとした塊にしか見えない桜に戸惑うばかり。
それが、次第に桜の再生にかける情熱に変わっていくのは、桜の持つ魔力か。
日暮れで、それに雨のせいで、確かに大きな白壁の家ははっきりと見えますが、その傍に咲いていると言う、肝腎の桜の花は、バックの白壁の中にとけ込んで、ぼうと霞んで見えるだけなのです。
あれがあの、私のはるばると尋ねて来た「薄墨の桜」なのでしょうか。雨の中の雲煙の彼方に、確かに桜の花らしい白い固まりは見えましたが、それは東京で見た青山墓地の並木の桜や、外濠の丘の上の桜のような、あんな艶麗な感じとは全く違います。
私は勝手の違うものを感じて、幾分がっかりしましたが、或いは雨の中の、而もこんな遠見では、見当が外れるかも知れません。「でも、あそこまで、この下駄ばきでは無理じゃないでしょうか。ここでさえ、こんな泥んこの道ですもの、」と雪子が言います。それに、見上げる谷あいは、いまにも日が暮れそうなので、心を残しながら、宿へ引返すことにしました。宇野千代 『薄墨の桜』 (集英社文庫)より
■つけたし notes
- 作者、宇野自身にも、着物デザイナーとして桜美を表現した和服が数多くある。
- 根尾谷の淡墨桜は繼體天皇(けいたいてんのう 450年 – 531?)お手植えの桜と伝えられている。名前の由来は、薄いピンクのつぼみが、花開くと白くなり、そして散り際には淡い墨色になることから淡墨桜(うすずみざくら)と名付けられた、と言われている。
- 淡墨桜は、山梨県北杜市武川町の「山高神代桜」(やまたかじんだいざくら)と福島県田村郡三春町「三春滝桜」(みはるたきざくら)と並んで日本三大桜のひとつに数えられ、国の天然記念物に指定されている。
石川淳:『修羅』、戦乱の洛中に現れる妖しい桜鬼
■石川淳(いしかわ じゅん、1899年- 1987年)
小説家、文芸評論家。本名は淳(きよし)。号は夷斎(いさい)。旧制官立東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏蘭西語部・卒。
『佳人』(昭和10、1935年)で作家デビュー後、『普賢』(1936年)等を続けて発表。『マルスの歌』(1938年)は反軍国的思想の廉で発禁処分を受けるも、『白描』(1939年)等の作品や批評を書く。戦後は「新戯作派」「無頼派」(太宰治、坂口安吾、織田作之助らがいる)として人気を博す。作品は、歴史や伝説を題材にしたものが多く、独自の文体と視点で知られる。和漢洋にわたる学識を作品に昇華させ,独自の文学世界を形成。代表作には『焼跡のイエス』『紫苑物語』『至福千年』『狂風記』など。『普賢』(1936年)で第4回芥川賞。日本芸術院会員。
『修羅』
『修羅』(1958、昭和23年『中央公論』)は、応仁の乱(1467年ー1477年)を背景に、その修羅場と化した15世紀末の都を舞台に展開するものがたりです。胡摩(コマ)は元は山名一族の姫ですが、数奇な運命を辿り、盗賊の首領となります。
幕府官僚で歌人の蜷川親元(にながわ ちかもと)や臨済宗大徳寺派の僧・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)などなど歴史に名を残す実在の人物も多く登場し、史実と虚構が織りなすいわば格調高い伝奇小説です。乱世の都に在る人々を恐怖に陥れる胡摩は、狂気と美を兼ね備えた妖しくも美しい桜の鬼です。
ある夜、蜷川親元は桜の大樹の影から現れた胡摩に、言います。↓
「いくさの都にも花はにほふ。無用のあらそひには背をむけて、ひとりをるこそたのしいが、花の友はあらばあれかし。さて、このあたりに、ともに風雅を語るひとがゐてくれるかどうか。」
さういひかけて、目するどく、木の下をきつと見て、即興の句をくちずさむ。無しともいへぬ花かげの鬼
すると、幹のうしろに、たちまちもののうごくけはひして、これも即興の、声に出てこたへるには、
見わたせば人のこころもおぼろにて
石川淳 『修羅』:『紫苑物語』 (講談社文芸文庫 )に収録
戦乱の絶え間ない都でも美しい花が咲いています。つまらない争いには背を向けて、一人でいるのが愉しいが、「いないとも言えない、花の影に潜む鬼」
胡摩が静かにあらわれ「見渡せば、人の心もぼんやりとしている」と返します。
『修羅』の桜は美と狂気の象徴であり、修羅たる女主人公に重なるイメージでもあります。
梶井基次郎:『桜の樹の下には』、咲き極まる震撼の美
■梶井基次郎(かじい もとじろう1901年- 1932年)
短編小説家、大阪府生まれ。第三高等学校(現・京都大学)卒業、東京帝国大学文学部英文科中退。大学在学中に同人誌「青空」を創刊し、『檸檬』などの作品を発表。日常の風景や出来事を、独特な視点の世界観と洗練された文体で、数々の名作を生み出す。肺結核を患い療養生活を送る中で、生命への強い執着と、死への恐怖を作品の中に表現し、多くの作品を執筆。31歳で夭折。
孤独、疎外感、生と死、愛など普遍的なテーマの深い洞察と美しい描写の短編で、時代を超えて多くの人々に読まれ続けている。代表作に『檸檬』『冬の日』『城のある町にて』など。
『桜の樹の下には』
■『桜の樹の下には』(初出:「詩と詩論」1928年/昭和3年)は、桜の美しさと死のイメージを結びつけた短編で、独特の視点が光ります。梶井は1927年(昭和2年)の元旦から転地療養の目的で伊豆湯ヶ島の旅館に一年ほど滞在します。川端康成の紹介でした。宿の真向いからは、世古峡(せこきょう)の断崖に生える染井吉野が見られ、4月には満開の桜を部屋から眺めることができました。
「桜の木の下には屍体が埋まっている!」
あまりにも有名な一行で始まるこの作品は、発表当時から多くの文学青年を震撼させました。散る桜の無常感でもなく、見事に咲く桜の生に死を重ねる、新たな視点の桜観が近代文学に登場したのでした。
「俺」が、聞き手の「お前」に語りかける物語は↓つぎのようにはじまります。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。出典:『桜の樹の下には』 梶井基次郎 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html
あれほどに桜花が美しく咲き誇れる所以は、樹の下に屍体が埋まっていてその漿液を根が吸い上げているからだというイマジネーションは確かに衝撃的でありかつ詩的でもあります。この始まりの一行から数行の後に続く次の文は桜の「生き、生きとした、美しさ」をも謳っています。↓
いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
出典:『桜の樹の下には』 梶井基次郎 (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html
桜の花が咲き誇る様子は、生命の美しさと同時に、その背後にある死や腐敗を暗示しているようです。咲き誇る美しさに生の頂点を見出したのかもしれません。死への予感めいた隠された恐怖を通じて、内面的な不安や死生観が冒頭の一行となって現れているのでしょうか。