桜に魅了された古人(いにしえびと)たち…。西行、兼好、芭蕉、宣長 はじめ多くの文人は、桜を通して人生の無常や美の本質を探求しました。
そして現代に至るまで、桜は日本人の心の象徴として、さまざまな形で文学や思想に影響を与え続けています。
自然との共生を願う日本の心を映すが如き桜愛とでも言えましょうか。
桜を通して日本人の精神性や美学を紐解いていまいりましょう。
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西行の桜 情熱、孤独、無常観
西行(さいぎょう)は、元永元年(1118年/平安時代末期)に生まれ。文治6年(1190年鎌倉時代初期)に没しています。俗名を佐藤義清(のりきよ)という武家の出です。18歳で左兵衛尉に任ぜられ翌々年に北面の武士となります。同僚に同歳の平清盛がいました。保延6年(1140年)23歳のとき、妻子がありましたが(否定説もあり)出家して西行法師と号します。
京都西山、東山、嵯峨、鞍馬、高野山など移り動いて草庵を結び、陸奥、四国はじめ各地を旅しました。草庵と行脚の生活を背景とした独自な境地など、後世の和歌や文学へ大きな影響を遺しました。
西行が遺した歌は約2090首あり、その内230首が桜を詠んでいるといいます。(松と梅はそれぞれ20〜30首)。晩年72歳になって嵯峨の草庵から生地紀ノ川(異説あり)に近い河内国弘川寺(ひろかわでら・大阪府河南町)に移り住み翌年、桜をみながらなくります。示寂73歳。
西行 桜との出会い
出家した西行は漂泊の旅の間にも桜を追い求めて詠んでいました。西行の桜への愛着は、晩年まで変わることはありませんでしたが、その表現方法は変化していったように思います。
咲き誇る桜から潔く散りゆく桜へ、そして散った後のその儚さを嘆くのでもなく淡々と情景を詠む……これは達観でしょうか成熟でしょうか。西行は桜への情熱と孤独と無常観を常に宿しているようです。
吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
この歌は、去年見た桜とは違う道を通って、まだ見たことのない桜を探そうという意気込みすら感じますね。若い西行の、新しい美しさを求める情熱なのでしょうか。その情熱は実らぬ恋への想いが桜に託されているとしたら…また違った物語が思い起こさせられます。 NHK大河ドラマ「平清盛」(2012年)では西行の出家の理由を、17歳年上の待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし/鳥羽院皇后)への身分違いの道ならぬ恋として描いていました。これには様々な説や憶測がありますが、西行の恋い焦がれていた相手が誰かはともかく、遂げられない想いに出家の原因があったとする解釈や物語は少なくありません。
西行の美学 散る桜
尋ぬとも風の伝にも聞かじかし花と散りにし君が行へを
南殿の桜(なでんのさくら)を詠んだ歌です。陸奥の旅中の1145年に待賢門院が亡くなります。散りゆく桜に待賢門院の面影を重ね偲んだのかも知れません。
年を重ねるにつれ、西行の桜への思いは深まり、その表現も繊細になっていきました。
眺むとて花にもいたく馴れぬれば散る別こそ悲しかりけり
この歌では、桜を眺めることに慣れてしまったからこそ、散る桜との別れが悲しいと詠んでいます。若い頃の情熱的な追求から、桜との深い絆を感じさせる表現へと変化しています。
西行 晩年の桜観
晩年になると、西行は散った後の桜や、来年の春への思いを詠むようになりました。
散る花を惜しむ心やとどまりてまた来ん春のたねになるべき
この歌は、散る花を惜しむ心が残って、来年の春に花が咲く種になるのだろうかと詠んでいます。桜の一瞬の美しさだけでなく、散る花に死から生へ循環する生命力と美を見出しているようのも思えます。西行の心の成熟というか、「悟り」が感じられます。
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃
桜を詠んだ西行の歌ではもっとも知られています。込められた西行の願いは、実際に叶えられたといいます。西行の生涯を通じた桜への深い愛着が集約されて、桜と同化していったような気がします。
兼好法師「徒然草」の桜
卜部兼好(うらべ の かねよし / うらべ の けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した日本の随筆家、歌人です。吉田 兼好(よしだ けんこう)という名前は吉田 兼倶(よしだ かねとも)による系譜の創作(捏造)で、江戸時代以降使われている俗称だと言う説が有力です。
兼好は1283年頃に生まれ、1350年頃に70歳前後で亡くなったとされています。30歳前後で出家し、その後『徒然草』を著しました。
『徒然草』は兼好の唯一の著作であり、日本三大随筆の一つと評価さ知られています。(残り2つは清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』)
兼好は桜についても印象的な記述を残しています。
第137段では、桜の美しさについて次のように述べています.
▦ 徒然草 第137段
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
ー以下略ー 現代語訳は下の ▼表示 をクリック
花は盛りに咲いている時、月は曇りなく満月の時だけを愛でるものだろうか?雨に向かって月を恋い慕い、部屋にこもって春の移ろいを知らない人も、やはり趣深く情深いものです。満開前の蕾が膨らんだ枝や、花びらが散り敷いた庭なども、見所はたくさんあります。和歌の詞書にも、「花見に行ったけれど、もう散ってしまっていた」とか、「事情があって行けなかった」などと書かれているものがありますが、それは「花を見て」と言っているのに劣るでしょうか?花の散り、月の傾くのを惜しむのは当然のことでありますが、殊に頑固な人は、「この枝もあの枝も散ってしまった。今は見るべきところがない」などと言うものです。
▦ 徒然草 第137段 つづき
万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。 ー以下略ー
この段では、桜は満開のときだけではなく、咲き始めから散った後にまでも、それぞれ趣きがあるとしています。物ごとは完璧な状態だけでなく、移ろいゆく姿や不完全な状態にも美しさがあることを説いているのでしょう。
兼好は、自然を観賞するには、美しさを感じ取る感性の豊かさと、想像力を働かせることも大切だとしています。また、都会人と田舎の人々の自然に対する態度の違いを対比させ、それぞれが素直に自然を楽しむ姿勢を評価しています。
▦ 徒然草 第139段
家にありたき木は、松・桜。松は、五葉(ごえふ)もよし。花は、一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様(ことやう)のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜(おそざくら)またすさまじ。虫の附きたるもむつかし。梅は、白き・薄紅梅(うすこうばい)。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚え劣り、気圧されて、枝に萎みつきたる、心うし。「一重なるが、まづ咲きて、散りたるは、心疾く、をかし」とて、京極入道中納言は、なほ、一重梅をなん、軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南向むきに、今も二本侍るめり。柳、またをかし。卯月ばかりの若楓、すべて、万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。橘・桂、いづれも、木はもの古り、大きなる、よし。
ー以下略ー 現代語訳は下の ▼ 表示をクリック
▦ 第139段 現代語訳
家に植えるべき木は、松と桜です。松は、五葉松も良い。桜は、一重桜が良い。
八重桜は、かつては奈良の都にしかないとされていましたが、この頃になってようやく世間に広まってきたようです。吉野の花、左近の桜は、いずれも一重桜です。八重桜は異様(邪道)なものであり、とても見苦しく、ねじ曲がった花を咲かせる。植える必要はありません。遅桜きの桜もまたひどいものです。虫がついたのも見苦しいです。
梅は、白梅と薄紅梅が良いです。一重で早く咲くのも良いですし、重なった紅梅の香りが良いのも、どちらも美しいものです。遅い梅は、桜と一緒に咲いて、見劣りして、萎縮して枝にへばりついている様子は、心苦しいものです。
「一重桜は、まず咲いて散ってしまうのは、心が急で、美しい」と言って、京極入道中納言(藤原定家)は、やはり一重桜を軒近くに植えていました。京極の家の南向きに、今でも二本残っているようです。
柳もまた美しいです。卯月頃の若楓は、全ての花や紅葉にも勝るほど美しく素晴らしいものです。橘や桂は、いずれも木が古くて大きいのが良い。
(現代語訳:AIサービス「Gemini」および「perplexity」を利用し、一部修正したものです)
この段では、兼好の庭木や花に対する好みが詳細に述べられています。特に、一重の桜を好み、八重桜を批判的に見ている点が特徴的です。兼好は自然の素朴な美しさを重視し、人為的に改良された花よりも、本来の姿を保った姿を好んでいるのでしょう。
また、各植物の特性や季節感を考慮した植栽の重要性も示唆しています。兼好の美意識と自然観を反映している段です。当時の園芸文化や兼行の美的感覚を理解する上で興味深い箇所だと思います。
芭蕉の桜 西行へのオマージュ
松尾芭蕉(1644年 – 1694年)は、ご存知のように江戸時代前期の俳諧師で、俳句の大成者として知られています。芭蕉の句には「花見」や「桜花」を直接、あるいは間接に詠ったものが40句以上あるそうです。「桜」(※)(例:草履の尻折りて帰らん山桜)という文字を使った句ばかりではなくや、「花」という言葉が桜を表している句(例:しばらくは花の上なる月夜かな)もたくさん含まれています。
(※)「桜」という文字が入った芭蕉句は29ありますが、桜花や花見などではないものもあります。例えば「木の葉散る桜は軽し檜木笠」は桜の落ち葉ですから、秋の句ですね。
さて、芭蕉と言えば最も知られているのは『おくのほそ道』でしょう。元禄2年(1689年)芭蕉46歳、崇拝する西行の500回忌にあたる年、河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文が『おくのほそ道』(奥の細道)です。(紀行文とはいえ単なる旅行記ではなく、創作部分もあり虚実織り交ぜ、何度も手を入れ推敲を重ねています。いわば巧みに構成された「文学作品」として今日評価されている句文集です)
おくのほそ道 (序)
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、ー以下略ー 元禄2年(1689年)
上は 芭蕉の「奥の細道」-序- の冒頭部分ですが、「古人も多く旅に死せるあり」は旅の途中で亡くなった歌人や旅人がたくさんいたことを示しており、とりわけ西行法師を念頭に置いた表現であるとされていますね。
同じくこの序文にでてくる「白河の関」も「松島」も西行に縁ある地です。白河の関の桜を詠んだ西行の歌です。
白河の関路の桜咲きにけりあづまよりくる人のまれなり
奥の細道はあたかも、西行に呼び寄せられての旅立ちであったかのようにおもえます。
芭蕉は多くの古典に造詣があるひとでした。和歌を踏まえつつ、独自の「蕉風」と呼ばれる俳風を確立しました。芭蕉にとって西行は、単に尊敬する先駆者というだけではなく、その生き方への共感、あるいは無常観や死生観への思索にもつながりがあるのではないかと感じます。
俳諧に花開く 芭蕉の桜句
「桜」が登場する、西行に因んだ芭蕉の句をいくつか見てみましょう。
よし野にて桜見せふぞ檜の木笠 (笈の小文)
元禄2年(1689)に『おくのほそ道』(奥州、北陸道)の旅に向かう前々年、貞享4年(1687)10月から翌年4月までの半年間余の旅が『笈の小文』です。この度の終わりに吉野へ向かいます。この句には次の前詞があります。
彌生半過る程、そヾろにうき立心の花の、我を道引枝折*となりて、よしのゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人の 、いせにて出むかひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便リにもならんと、自万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書ス
*我を道引枝折(われをみちびくしおり)は、西行の歌にある「枝折」↓(道標。木の枝などを折って道しるべとすること)にかけています。
■ 西行の歌
吉野山昨年の枝折の道かへてまだ見ぬ方の花をたづねむ (西行法師 新古今和歌集 )
- 「昨年の枝折の道」(こぞのしおりのみち)は、昨年見た桜がもう散ってしまった道筋です。
- 「かへて」は、「通り過ぎて」という意味です。
- 「まだ見ぬ方(かた)の花」は、まだ咲いていない桜を指します。
昨年見た桜はすでに散ってしまい、二度と見ることができないことを嘆いている一方で、まだ咲いていない桜を見に行くことで、希望を捨てずに前向きに生きていこうとしている独白のような、無常観と希望が共存している西行らしい歌だと思います。様々な解釈ができるでしょうけれど。
芭蕉に戻りましょう。前述の芭蕉の句「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」に、同行の坪井 杜國(つぼい とこく)はこうつづけます。
よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠 (万菊丸)
杜國は自ら万菊丸と名乗っていますが、実は芭蕉が名づけたのだといわれています。杜国の生年は不詳ですが芭蕉より一回りほど若年でしょう。ふたりは衆道(しゅどう)の関係であったようです。万菊丸という名は「堂々と美形衆道を名乗っている」と嵐山光三郎翁は名著『芭蕉紀行』の中で仰っています。
米穀商の杜國は空米を売った咎で、尾張領内から追放中の身でした。ふたりは示し合わせて合流し伊良湖から船で伊勢に渡り、吉野の桜を観に行きます。お忍びの旅です。喜びを打ち明け、心浮き立つような句を詠み、息の合った句を返しています。
両句にある「見せふぞ」という表現には、桜の美しさを相手と共有したいという思いが込められているようです。嵐山光三郎さんは、こう記しています。↓
「どう考えても駆け落ちの句である。芭蕉の万菊丸への恋情はすざまじく、万菊丸もまた身をよじるようにしてそれにこたえている。」
嵐山光三郎・著『芭蕉紀行』(新調文庫)
芭蕉は『笈の小文』の俳句や書簡などの原文となるものは門人の乙州(おとくに)に預けたままで、発表せずに秘していました。杜國との旅はそれほど秘密であったのかも知れません。芭蕉没後15年も過ぎた宝永6年(1709年)、乙州によって構成編集され『笈の小文』は刊行されました。
吉野へは西行の足跡を辿る目的もあったはずです。杜國への思いが際立つ妖しい旅の話になってしまいました。吉野の桜の精でしょう。
芭蕉の句を続けます。
西行の庵もあらん花の庭 (泊船集 /はくせんしゅう)
(さいぎょうの いおりもあらん はなのにわ)
西行は吉野へ、ある時期は毎年のように出向いていました。草庵を設けここに3年間隠棲していたといわれています。今も吉野山に「 西行庵」として残されています。
庵の近くには、「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな」と西行が詠んだという苔清水が湧き出ています。
芭蕉のこの句は、江戸で読まれたものです。親交のあった俳人・内藤露沾(ないとう ろせん)の住居へ訪れた際の挨拶句です。 (芭蕉は挨拶句をたくさん残しています)
句の大意は「花(桜)も盛りのこの庭は、吉野の西行の庵にありそうな、趣のある庭です」といったところでしょう。「西行の庵もあらん」という表現に、西行の存在を直接的に想起させる強い思いが込められているように思います。社交的文脈の中で生まれる即興性や日常性の俳句であっても、西行への深い敬意と憧れを表現できる独自の感性と表現力に、純粋で高い精神性を思うのは、深読みでしょうか。
何の木の花とはしらず匂哉 (笈の小文)
(なにのきの はなとはしらず においかな)
(大意:何の木の花かはわからないが、なんと良い香りだ)
前詞に「西行のなみだ、増賀の名利、みなこれまことのいたる處なりけらし」とあります。西行の涙(感動)と、増賀(平安時代の歌人)の名声への執着を対比させています。西行の精神的な深さも、増賀の世俗的な欲求、その両方とも、人間の真実の姿であろうと考えているのですね。
芭蕉の句は、 西行の歌「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
を受けて、西行が「わからないけれど感動する」という心情を表現しているのに対し、芭蕉は「わからないけれど香りを楽しむ」という姿勢を示しています。
知識や理解を超えた直接的な感覚や経験の価値を強調しており、前詞で示された人間の本質に関する洞察につながっていつように思えます。この句は桜ではありませんが、西行の精神性を継承しつつ、感覚的で直截的な表現を用いた俳諧の新しい境地を開いた句のように思えて、載せました。
この他にも芭蕉は西行の旅の跡を追うように、各地を訪れ敬意、称賛を示す句や文を残しています。
また、前述しましたように、芭蕉には桜の名句がたくさんあります。その一部を載せて芭蕉の項の締めくくりとします。
声よくば謡はうものを桜散る
(こえよくば うたおうものを さくらちる)
桜が散る美しい光景を目にして、もしも私の声が良いのなら謡を歌いたいという思いを表現。桜の儚さと美しさに感動し、その感情を和歌や謡曲で表現したいという芭蕉の心情か。
さまざまなこと思い出す桜かな
(さまざまの ことおもひだす さくらかな)
桜を見ることで、様々な思い出が蘇ってくる心の動きを詠んでいる。桜が過去の記憶や経験を呼び起こす力を持っていることを示し、桜と人間の心の深い結びつきを表現。
うかれける人や初瀬の山桜
(うかれける ひとやはつせの やまざくら)
初瀬(奈良県桜井市)の山桜を見て、心が浮き立つ人々の様子を描いている。山桜の美しさに魅了され、心が高揚する人々の姿を通して、桜の魅力と人々への影響力を表現。「うかりける人を初瀬の山颪(やまおろし)はげしかれとはいのらぬものを」(源俊頼『千載集』)を踏まえての句。
奈良七重七堂伽藍八重ざくら
(ならななえ しちどうがらん やえざくら)
奈良の七重の塔や七堂伽藍(寺院の主要な建物群)と八重桜を対比させている。古都奈良の歴史的建造物と自然の美しさを同時に捉え、その調和を表現。
姥桜さくや老後の思ひ出
(うばざくら さくやろうごの おもいいで)
姥桜(ヒガンザクラの一種、開花期に葉が無いことから「歯無しの老婆」に例えて呼称。または.若さの盛りを過ぎても、なお美しさが残っている女性のことをいう)が咲く様子を、老年期の思い出に重ね合わせている。老後に一花咲かせようと姥桜が咲いている、という捉え方もある。長い年月を経た桜の姿に、人生の終盤を迎えた人間の思い出や感慨を重ね、人生と自然の循環を表現。
桜はかつて麗しき女性だった…
桜は美しい女性でした。
- 古事記や日本書紀に登場する木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)は桜の精でありました。
- 本朝三美人の一人、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)は翌朝天皇によって、美しい桜の花になぞらえて讃えられています。
- 二人の男の求愛に自らの命を断つことを選んだ、桜児(さくらこ)(万葉集)も桜の花となって散っていきます。
- 伊勢物語「梓弓」(あづさゆみ)の段では、業平が出会う美しい女性が桜の花に喩えられています。源氏物語「花宴」(はなのえん)に登場する女性たちの美しさが、桜と重ねられて描かれています。
- 世阿弥の能「西行桜」では、桜の精が現れてその美しさが、散る花とともに、静かに儚なく消えていきました。
これらの物語では、桜は女性の美しさや魅力と重ね合わせて描かれています。桜と女性美の深い結びつきを示しています。桜はかつて女性だったのです。
散ればこそいとど桜はめでたけれ
古今和歌集(巻第二春歌下71)に次の歌があります。
のこりなくちるぞめでたき桜花 ありて世の中はてのうければ (よみ人しらず)
桜の花が完全に散り尽くすことを「めでたき」と称賛しています。世の中がいつまでもある、終わりがないのは嫌なものだから。。。人生や自然の無常を肯定的に受け入れる姿勢のようなものが感じられます。
伊勢物語の第82段『渚の院』に在原業平(ありわらのなりひら)の歌があります。
世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし (在原業平)
(もし世の中に桜がなかったならば、春の心はもっと穏やかであっただろう)
この歌に誰かが(未詳)返して詠みます。↓
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき (よみ人しらず)
(桜は散るからこそ一層美しいのです。浮世(この世の無常な世界)において、何が永遠に続くことがあるだろうか、ありません)
桜の散る美しさを称賛し、その儚さを、無常であるからこそ美しいという視点は、日本人の美意識の核心にあるような気がします。永遠に続くものはないという真理を、歌に詠み物語などに取り込んでいます。
桜の花は枯れはて朽ちて散るのではなく、美しい花びらのまま散っていきます。
散華の美学:三島由紀夫が見た桜
その美学はやがて「花は散り際」が美しいとなり、そして「人は死に際」へと続くのでしょうか。
武士道の死生観と日本人の無常観は深く結びついていると屡々説明されます。その思想は、桜の花に象徴される儚さの美学と密接に関わっているのかもしれません。
江戸時代中期の『葉隠』に記された「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という言葉も、物事の儚さや移ろいやすさを美しいと感じる感性に通じるものなのでしょうか。
このあたりから日本人の桜に対する感じ方が、以前とは異なってきたのではないでしょうか。以前、桜は美しい女性であったはずです。
竹田出雲ら(二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。)の『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら/寛延元年(1748年)初演)の「半眼切腹」の場には有名な台詞が出てきます。
「花は桜木(さくらぎ)人は武士と申せども、いっかないっかな武士も及ばぬ御所存」
以来、台詞のこの部分を切り取って、桜が散るように武士も散るべきだという美意識として捉えられています。
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「花は桜木、人は武士」
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この美意識は、名誉を守り恥を避ける日本の「恥の文化」(R.ベネディクト『菊と刀』)とも密接に関連し、不名誉な生よりも、名誉ある死を選ぶという考え方は、武士道の根幹とされてきました。
幕末の志士達は散りゆく桜を美しい女性像ではなく、己の生命になぞらえていきます。散りゆくことを美徳としたのでしょうか。
やがては明治時代の陸軍唱歌「万朶(ばんだ)の桜か襟の色 花は隅田に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば 散兵線(さんぺいせん)の花と散れ」(歩兵の本領)を経て、さらには軍国の花となり、軍歌「同期の桜」は、戦死を花が散る様子に喩えます。やがて靖国の花となってゆくのはご承知のとおりです。
『葉隠入門』という著作もある三島由紀夫(1925‐1970年)は昭和45年11月25日に自決しました。45歳でした。来年(2025年)は、生誕100年、没後55年になります。
われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示してゐるのは、もつと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さへも、人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを主張してゐるのである。
三島由紀夫『葉隠入門―武士道は生きてゐる』(光文社)より
三島の2首ある辞世の句のひとつが下の句です。↓
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐
(ちるをいとう よにもひとにもさきがけて ちるこそはなと ふくさよあらし)
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散ることを厭う世の中や人々に先駆けて、散ることこそが花の本質である(といっているかのように)小夜嵐(夜の嵐)が吹いている
三島にとって、「散る」ことは単なる終わりではなく、最も美しく、価値ある瞬間を意味しているのでしょうか、そしてそれは武士道や桜の美学と深く結びついているのかも知れません。
三島は散華の美学を全うした最後の人だったのでしょうか。
本居宣長の桜愛
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敷島の 大和こころを 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花
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江戸時代の国学者・本居宣長(もとおり のりなが、享保15年(1730) – 享和元年(1801年))には、桜を愛でた歌が沢山あります。
上の歌は宣長61歳(寛政2年/1790年)の自画像に添えられたものです。朝日に匂う山桜の美しさを敷島の心として讃え歌ったものです。
「敷島」は日本の別称で、「大和心」は日本人の精神や美意識。朝日に輝く山桜の花の美しさと香りが、日本の精神の象徴でしょうか。
日本人の心を桜の花に喩えています。日本人の美意識や精神性が桜の儚さや美しさと深く結びついていることを示しているようです。
後の時代に、この歌の「大和こころ」は精神主義へと関連付けられれるようになっていきます。神風特別攻撃隊(特攻隊)の部隊は、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と冠されました。
前後しますが、宣長は44歳(安永2年/1773)のときにも自画像の画賛として次の歌を添えています。
めづらしき 高麗もろこしの 花よりも あかね色香は 桜なりけり
この歌では、外国(高麗や中国)の珍しい花よりも、日本の桜の色と香りの方が優れていると詠っています。「あかね色」は桜の淡い紅色を指し、宣長が日本固有の桜美を、より高く賞賛していることがわかります。
71歳の宣長が、秋の夜長に寝付けぬままに、春の桜を詠み続けた300首以上が寄せられた歌集『枕の山』があります。
109 我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり
宣長の桜への強い愛着でしょうか。桜の美しさに心を奪われ、休む暇もなく疲れ果てる様子を詠っています。「桜の奴」とは、桜に心を奪われ、その虜になってしまった状態を表現しているのでしょう。
110 此花になそや心のまとふらむわれは櫻のおやならなくに
桜の花に心が惑わされる理由を問いかけています。「桜の親でもないのに」と言いながらも、桜に心を奪われる自身を不思議に思う気持ちを表現しているですね。桜への深い思いと、同時にその感情を客観的に見つめる姿勢が感じられます。
113 櫻花ふかきいろとも見えなくにちしほにそめるわかこゝろかな
桜の花は深い色には見えないのに、ちいさな自分の心が桜色にに染まっているのだろうか。「ちしほにそめる」は「千入(千汐)に染める」で、繰り返し幾度も染めること。桜の淡い色彩とは対照的に、桜への思いで深く染まっている心の情景を詠んでいるのだと思います。。
宣長『枕の山』(315首)から
このブログページの冒頭で、万葉集の和歌に登場する「咲きにほへるは櫻花」という表現をご紹介しました。宣長の歌では「朝日に匂ふ 山ざくら花」と詠まれています。万葉集の桜は自生のヤマザクラでしょう。また本居宣長もヤマザクラを鍾愛する人でした。
宣長晩年の随筆集『玉勝間』に次の文があります。
「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず…」
(山桜の葉は赤みがかって光沢があり、細い枝にまばらにまじって、花がぎっしりと咲き乱れ、これに匹敵するほど美しいものはない、この世のものとは思えないほどの美しさである…)
宣長はヤマザクラに現世を超越したような美しさを感じているのですね。
小林秀雄の桜観
批評家・小林秀雄(こばやし ひでお、1902年 – 1983年、。1967年文化勲章)の著書に『本居宣長』があります。昭和40年(1965)に文芸雑誌に連載を始めて、11年にわたって書き継いだものです。(その3年後にも続編『本居宣長補記』の連載を再開しました。)
小林もまたヤマザクラを愛する人でした。小林秀雄の書籍編集者であった池田雅延さんは、「随筆 小林秀雄 十三」『桜との契り』(新潮社webサイト「考える人」)の中でこのように書いていらっしゃいます。↓
桜というと、私たちはほとんど反射的に、ソメイヨシノの満開を思い浮かべるが、小林先生はそうではなかった。まずいちばんに山桜、次いで八重と枝垂れであった。
(ー 中略 ー )
しかし、先生は、ソメイヨシノは品がないと言っていた。
( ー 中略 ー )
講演「文学の雑感」(新潮CD「小林秀雄講演」第1巻所収)では、本居宣長の最も知られた歌、「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」を取り上げ、「山ざくら花」とはどういう花か、それが「におう」とはどういうことかを丁寧に説いているが、その流れのなかでソメイヨシノにふれ、ソメイヨシノは品がないどころか、冗談めかしてではあるものの「俗悪」とまで言っている。
山桜は、単に山に咲く桜、の意で言われることもあるが、宣長や小林先生の心をつかんだのは、野生する桜の一品種としての「山桜」である。
(ー 中略 ー)
山桜に寄せる先生の愛着は、もはや宣長の愛着と寸分違ってはいなかったであろう。
↑出典:十三 桜との契り | 随筆 小林秀雄 | 池田雅延 | 連載 | 考える人 | 新潮社https://kangaeruhito.jp/article/1236
著作に何年も没頭し、本居宣長と対峙しつづけているのですから、小林秀雄の桜愛は本居宣長にも触発され鼓舞されつづけていたのでしょう。それでも、小林は独自の美意識から成り立つ審美観で、桜に接しているように思えます。桜に何も求めない、美しくさえあればそれで良い…「無私の精神」にも通ずる稀代の審美家の桜愛であったような気がします。
⇣下は(桜ではありませんが)、世阿弥の「花」について書かれた文中に出てくる、小林秀雄の有名な言です。
美しい花がある。「花」の美しさといふ様なものはない。
出典: 小林秀雄 『当麻』 (たえま/1942年)
■小林秀雄 講演 「山桜の美しさ」➡ https://youtu.be/55g93dHM7YE
本居宣長やヤマザクラへの想いと染井吉野に関して小林の辛辣な意見が収録されています。
ソメイヨシノ(染井吉野)
日本には自生の「山桜」が10種程度 、園芸品種の「里桜」をあわせると200種以上のサクラがあるといわれています。雑種や変種など栽培品種をあわせると数百種(分類法によっては600〜800という説も。wikipedia)あるといいます。
おなじみのソメイヨシノ(染井吉野)は、自生種のオオシマザクラ(大島桜)を父種とし、母種エドヒガン(江戸彼岸)との自然交配により生まれた園芸品種がもとになっています。(サクラの種名としては本来はカタカナ表記にすべきでしょうが、このブログではあえて漢字も記載します)
ソメイヨシノが発見されたのは江戸府下豊島郡の染井という地域(現・東京都豊島区)の植木屋が集住していた村でした。(現在、JR山手線駒込駅となりには染井吉野記念公園があり、「発祥の里」と銘した記念碑が建っています)
この桜が江戸後期から明治にかけて「吉野桜」という名で売り出され日本全国で爆発的な人気を博したそうです。「吉野桜」は桜の名所奈良吉野に因んだ銘でしたが、明治33年(1900)に藤野 寄命(ふじの よりなが)という博物学者が「ソメイヨシノ」(学名: Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino‘)と名付けて学会誌に論文を発表して以来この名が広まったということです。
かつて日本は桜といえばヤマザクラであったのですが、明治時代以降ソメイヨシノが席巻し今や全国に埋め尽くされているいうことになってきました。
接ぎ木増殖された栽培品種である現代の染井吉野(ソメイヨシノ)の遺伝子は同一ということになります。その特徴は比較的成長が早く、若木のうちから花がつきやすいのです。また花は比較的大きめで派手、葉よりも先に咲きます。植栽後数年で見栄えのする桜に育つというこれらの特徴から、日本全国で採用され、たちどころに普及していったのでしょう。ソメイヨシノの寿命は60年ぐらい(最長でも100年程度)といわれています。ヤマザクラの2〜300年に比べるとだいぶ短命です。東京では昭和30年代に植えられたところが多いそうですから、すでに多くが老木となっています。
ご存知のように染井吉野は、いっせいに咲いて散ります。その散り際の有り様が死することの無常観になぞらえるのでしょうか。「
仮名手本忠臣蔵」のころから桜に対する感じ方が、異なってきた、と前述しましたが、その後近代になると国の花となり、潔く散る散華の美学と相まって軍国の花となってまいります。それは染井吉野の普及とかかわりがあるとするのは、こじつけでありましょうか。染井吉野に罪咎があると申しているのではありません。
「染井吉野は妖しくて、哀しい感じがするでしょう。
咲くときも散るときも、一生懸命すぎて切ない」出典:渡辺淳一『桜の樹の下で』
↑現代の作家の、染井吉野観です。 ▶『桜の樹の下で』(渡辺淳一 1933年 – 2014年)