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桜色の日本史。 花と人が織りなす… 桜のものがたり vol. 01

桜は日本人の心を捉えて離さない、特別な存在です。
古来より和歌や俳句に詠まれ、花見の文化を育んできた桜。その美しさは単なる視覚的な魅力だけでなく、日本人の美意識や精神性とも深く結びついています。

「咲きにほへる」という表現に隠された日本語の奥深さや、花見の起源に関する興味深い説など…桜を通して見える日本文化の神髄に迫ります。

さあ、桜色に染まる日本の歴史と文化の旅へ!


この動画は[NoLang]で生成したものです。

 

 

咲きにほへるは櫻花

古から日本人は桜を愛で、そして「咲き匂う」と表現してきました。

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見渡せば春日の野辺に霞み立ち咲きにほへるは櫻花かも
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万葉集にある有名な歌です。(作者未詳 )
「見渡してみると、春日野のあたりに霞が立ちこめ、そこには桜の花が色美しく咲いていることよ」   と、いったところでしょうか。

咲きにほへる」は匂うという意味ではなく、桜花が美しく色付いたということだと古文の授業で教わりました。

匂う」はもともと、色が美しく映える、という意味だったようです。元来「におい」や「かおり」は臭覚に関する語ではなかったんですって。古語辞典に「にほふ」の「」は「」であると説明があります。丹は赤色、赤土(丹土)の事です。「にほふ」の「」は「」であり際立つ事の意です。「」は活用語尾。「にほふとは赤く色付くということです

突然ですが、『冬の色』という1974年発売のはやり歌がありました。
(山口百恵:唄、千家和也・作詞)
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あなたから許された 口紅の色は からたちの花よりも 薄い匂いです
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と唄いだします。       ↓↓↓↓

歌詞ですから辻褄を追求するのは野暮ではありますが、「♪口紅の色は、、」と唄いだしながら「♪薄い匂いです、、」と続くのが不思議でした。にほふとは赤く色付くこと であれば合点がいきます。

さくら さくら…匂ひぞ出づる

下は「さくらさくら」(または「さくら」)という、どなたもご存知の唱歌ですが、もとは幕末のころに子供用の琴歌(箏の手ほどき曲)として作られたそうです。
♪ さくら さくら 弥生の空は
  見わたすかぎり 
  霞か雲か 匂ひぞ出づる 
  いざやいざや 見に行かん

もうおわかりですね、申し上げたいことは。ここでも「匂ふ」は「美しく咲く」「鮮やかに色づく」という意味です。 「匂ひぞ出づる美しく華やかに咲き誇っている」 というような意味でしょう。

上で掲げた「さくらさくら」は作者不詳ですが、明治21(1888)年「桜」と題して東京音楽学校編纂の『箏曲集』に掲載されました。

昭和16年(1941)に改められたもう一つの歌詞があります。尋常小学校が国民学校に改変となったこの年の唱歌集『うたのほん(下)』に採用されたとのことです。その後、この新しい歌詞を1番、元の歌詞を2番としている場合もあるそうです。

さくら さくら 野山も里も
見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくら さくら 花ざかり

さくらさくら」のメロディーは、国内のみならず海外でも親しまれてきました。

  • 1904年、プッチーニの歌劇「マダム・バタフライ」(蝶々夫人)の第1幕にこの曲が取り入れました。
  • 大正12年(1923年)には宮城道雄の箏曲「さくら変奏曲」が発表されました。これは「さくらさくら」を8つの変奏曲として編曲したものです。
  • 以来今日に至るまで、様々な作曲家が変奏曲の主題として採用したり、ジャンルを問わず数々の楽曲の曲中にフレーズが引用されています。

 

でも、カラタチ(枸橘)の花は白ですねえ。では、このような解釈はいかがでしょうか。↓

 「♪口紅の色は、薄い匂いです」(知ったかぶりの解釈 w)

歌謡曲『冬の色』の「口紅の色は薄い匂いです」という歌詞表現における「匂い」には、単なる香りだけでなく、視覚的な印象や雰囲気を含む多義的な意味があると解釈できるのでは…、というお話しをはじめます。

冒頭に挙げた万葉集の歌のように日本の古典文学において、「匂い」にほひという言葉は、しばしば色彩や美しさ、心象風景を表現するために使用されてきたのだと思います。

その例を『源氏物語』で探してみましょうか。

いくつかありそうですが、「若菜上」の巻で「匂ひやか」という表現が使われていました。光源氏の息子である夕霧が成長し、その姿が描写される場面で次のように表現されています。

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いとどにほひやかに、をかしげなる御さまにて、御髪などもいと長くなりたまへり
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夕霧の容姿が非常に優美で魅力的であり、その髪も美しく長く伸びていることを描写しているのでしょう。この「にほひやかに」は、単に香りが良いという意味ではなく、夕霧の雰囲気や美しさ、気品を表現しているのだと思います。(「をかしげなリ」は、いかにも趣きがある、 いかにも愛らしい、いかにも優雅な )

つまり「匂い」にほひ)という言葉は、視覚的な美しさと、香りのような感覚的な印象を融合させ、人物の持つ優雅さや魅力を総合的に表現するために使用されているのではないかと。これは、日本の古典文学における感覚の融合と多義的な表現の例であると言えるのではないかとおもうのです。

歌謡曲の「口紅の色は薄い匂いです」という表現も同様にその流れにあるのではないかと。。。口紅の色が控えめで上品であり、その美しさが微かに漂っているという意味合いが含まれていると解釈できます。その優雅で美しい様子を描写するのに「匂い」が使われているのではなかろうかと。。。したがってこの歌詞は、色彩(視覚)と香り(嗅覚)、そして雰囲気(感覚)を融合させた、日本の伝統的な美意識を反映した表現を狙ったのではないかと。。。(回りくどくても、理屈に飛躍があっても、無視してください。   次につなげたいので… w)

そこで「共感覚と呼ばれる知覚現象を使った表現技法のことに思い至ったわけです。「共感覚」((きょうかんかく、シナスタジア、 synesthesia)は、1つの感覚的な刺激から複数の知覚が引き起こされることです。たとえば文字や音から色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりすることですね。複数の共感覚を持つ場合もありますし、一組み合わせだけの共感覚のこともあります。

この歌詞の場合、視覚的な要素(口紅の色)と嗅覚的な要素(匂い)を融合させた表現で、控えめで上品な印象を意図し、からたちの花との比較は、その繊細さを強調しているのだ、と思います。

したがってこの表現は、恋心の純粋さや慎ましさを暗示していると解釈できます。口紅の色が薄いということは文字通りには、控えめな化粧を意味し、それが「薄い匂い」と表現されることで、その控えめさがさらに強調されています。(こじつけ w)

日本の古典文学、とりわけ和歌には、このような感覚の融合がしばしば見られます。たとえば、「色なつかしき」という表現の「なつかしき」は「心が引かれる、好ましい」という意味で、視覚と感情を結びつけています。これは、日本の伝統的な美意識や価値観、「物のあはれ」や「幽玄」といった概念にも繋がり、繊細で奥深い感性を表現しているのですね。

桜歌にみる「共感覚」表現技法

では「共感覚」と呼ばれる表現技法を使った「桜」の和歌の例をもう1首みてみましょう。

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花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
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古今和歌集にある小野小町の有名な歌です。

「桜花の色は、すっかり色あせてしまったよ…あたしが、世の中や恋のことについて物思いにふけっている間に……同じようにあたしの美貌だってすっかり衰えてしまった…」(意訳:知ったかぶりの当ブログ筆者

絶世の美女と言われた小野小町の、実らぬ恋、容貌の衰え、心の衰勢…桜花が色あせていくのと同じように、自身も年老いていく姿を嘆き悲しんでいる、そんな悲哀の歌なのですね。

「花の色」の移ろいは、視覚的な変化を表現。
「わが身世にふる」は、時間の経過と共に人生が変化していく様子の表現。
これらを重ね合わせることで、桜の儚さと人生の無常を同時に表現しているのでしょう。(桜の色の変化を見つめることが、自分自身の人生の移ろいを感じることと重ね合わさっている)

この歌には、「花の色」という視覚的な要素と、「わが身世にふる」という時間の経過や感情的な要素が融合されているように思えたので、共感覚的表現の例としてあげてみました。

桜と日本人、花見と詩歌と

お馴染みの落語『長屋の花見』(貧乏花見)では、卵焼きは沢庵で、蒲鉾に見立てたのは大根でした。おさけの代わりに渋茶を呑んで気炎をあげるという、なさけない花見でした。これぞ庶民の知恵と工夫の結晶というご意見もあります。インスタ映え狙いといったところでしょうか。


記録に残る最初の花見としては、『日本後紀』(840年/完)に記載があるそうです。812年・嵯峨天皇(786-842) の花見がそれです。里の桜(ヤマザクラ)を宮中に移植して宴を催したということです。それが今日の春の園遊会に繋がっているのでありましょう。

」という語自体はそれ以前の『日本書紀』(720年)の「履中紀」が初出だそうです。

履中天皇(りちゅうすめらみこと・第17代天皇)はある冬11月(太陽暦12月)、磐余市磯池(いはれのいちしのいけ)に船を浮かべて宴を催した。今しもさけを飲もうとしているそのとき、酒盃にひとひらの桜の花びらが。。

季節はずれの花びらだが、どこの花だろうか

調べさせると、掖上室山(わきがみのむろのやま・奈良県御所市室付近)であったと。履中天皇はその椿事を喜び、宮の名を磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)としました。  奈良県桜井市の地名起源の説話でもあります。

「履中紀」には「花見」という語こそ出てまいりませんが、このように最初から「」は貴族のとともに登場します。

和歌に詠まれる 梅から桜へ

は貴族の宴とともに…」と申しましましたが、奈良時代の花見は梅の木の下というのが主流であったようです。中国からの影響*でしょうか。万葉集4500余首中で「梅」が詠まれている和歌は「桜」の2倍以上あるそうです。(いちばん多いのは「萩」**ですが)これが万葉時代から平安時代にかけて梅から桜へと和歌の主題が移行していきます。

  • 万葉集(759年頃成立):
    約4500首中を詠んだ和歌が46首が119首萩は142首
    *(梅は中国から渡来。桜は日本に自生)、**(萩の姿が稲穂が垂れる姿に相似しているので貴重であった、という説あり)
  • 古今和歌集(905年成立):
    1100首中、桜 約46〜70首、梅 約30首、萩 9首。この時代に梅よりも桜の人気が高まっていたことを示しています。
  • 新古今和歌集(1205年成立):
    1979首中、桜 約41首、梅 21首、萩 24首。桜の優位性が続いていたことを示しています。この時代には、桜は日本の象徴的な花としての地位を確立していました。

参考:『新編 日本古典文学全集 』シリーズ(小学館)万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、他

※ 梅、桜、萩の詠歌数については諸説あります。 

上に掲げた梅、桜、萩などの詠歌数については諸説あります。たとえば、万葉集の桜の詠歌数は38〜43首で、古今和歌集では70首とするご本もありました。「桜」という文字がなくても、「桜」を詠んでいるのが明らかな場合は数にいれる、あるいは「桜」という文字がなければ算入しない、などがあるしれません。たとえば紀貫之の有名な歌、

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

この歌の詞書には「桜の花の散るをよめる」とありますから、明らかに散る「花」は桜なのですが、数に入れてあるかは不明です。もう1首例を掲げます。

霞立つ春の山べはとほけれど吹きくる風は花の香ぞする

古今和歌集にある在原 元方(ありわら の もとかた)の歌です。霞がかかって遠くに見える山と、その山から風によって運ばれてくる桜の香りという対比で、春の訪れを詠んでいるんですよね。「花の香(か)ぞする」としていますが、もちろん桜の香ですね。でも、この様な歌は数に入れていないこともあるかも知れません。また、万葉集にある歌が古今和歌集にも選ばれているものもありますが、これを入れてあるか否かで数は変わります。
自身で数える能力がございませんので長々と詠首数の言い訳を申しました。m(_ _)m)

【追記】各歌集での「桜」と「梅」の詠歌数については、ネット上にもいろいろあるようです。たとえば以下のサイトでは次の数です。
万葉集[桜:44首、梅:118首]。古今和歌集[桜:70首,梅:18首]
/ 出典:令和と梅と桜 https://www.zkai.gr/echtas/エクタス理科より/post_444/

 

万葉時代、貴族の間では中国から伝来した梅が流行し、梅の花見が催されました。しかし、平安時代にかけて和歌の主題が梅から桜へと移行していったことからわかるように、日本人の関心は次第に桜へと戻っていきました。これは、古来より日本に自生していた桜の美しさを再認識し、日本固有の美意識への回帰を示していると考えられます。

 

 

花見の変遷、奈良時代から江戸時代まで

前項では、和歌を中心に貴族たちの関心が梅から桜へと移って(戻って)いき、象徴的な花へと確立されていく流れを辿ってみました。

さらに江戸時代にかけては人々の桜への関心が大きく変遷していきます。奈良時代から江戸時代までの桜や花見に関するできごとなどを歴史の中から掬って順に眺めてみましょう。

  • 奈良時代(710-794年):
    • 花見の起源は梅の観賞から始まりました。中国からの影響で、梅が重視されていました。
    • 平城京の南殿の桜(なでんのさくら、左近の桜)が植えられ、宮中での花見の伝統が始まりました。
    • 桜会(さくらえ、法桜会)という天皇皇后の息災と国家安穏を祈願する行事では観桜の宴が開かれていました。
  • 平安時代(794-1185年):
    • 桜が梅に代わって花見の主役となり始めました。
    • 宮中花宴が盛んに行われるようになりました。
    • 源氏物語」の花宴の巻に、貴族の花見の様子が描かれています。
      光源氏が主催する花見の宴です。貴族たちが集まり、桜の美しさを愛でながら和歌を詠み合う様子が描かれています。平安時代の貴族社会における花見の重要性と、その洗練された文化的側面を示している場面だと言えましょう。
    • 交野の桜狩(かたののさくらがり)が「伊勢物語」に登場し、野外での花見の様子が描かれています。
    • 花合(はなあわせ)という、桜の美しさを競う行事も行われました。平安時代の宮中行事で、左右に分かれた貴族たちが、桜の枝を持ち寄ってその美しさを競い合うものです。審判役が勝敗を決め、負けた側が宴会を催すという形式でした。この行事は、桜の美しさへの 評価を競うだけでなく、貴族間の交流や文化的洗練を深める機会としても機能していました。
  • 鎌倉時代(1185-1333年):
    • 西行法師が「花の寺」を訪れ、桜を愛でる旅をしたことが知られています。
    • 平家物語」にも花見の場面が描かれ、武士の間でも花見が広まっていったことがわかります。平清盛が主催する花見の宴が描かれています。この場面は、武士階級が貴族文化を取り入れ、花見を政治的な場としても利用していたことを示しています。花見が単なる自然鑑賞ではなく、権力誇示の場としても機能していたことがわかります。
  • 室町時代(1336-1573年):
    • 醍醐寺(京都)での花見は平安時代からありましたが、この時代に有名になりました。特に醍醐寺三宝院の庭園は桜の名所として知られ、多くの貴族や文人が訪れました。この伝統が後の豊臣秀吉の大規模な花見につながっていきます。
    • 世阿弥は『風姿花伝(ふうしかでん)の中で「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。」*としています。能の作品としても「西行桜」、「熊野(ゆや)などたくさんの桜の主題のものがあります。*秘密だから花であり、秘密でなければ花ではない。この違いを知る事が秘訣だ。(現代語訳は:wikipediaより)
    • 吉田兼好の「徒然草」に花見の様子が描かれ、庶民の間でも花見が広まっていったことがうかがえます。
  • 安土桃山時代(1573-1603年):
    • 豊臣秀吉の醍醐の花見が有名です。1598年、秀吉は醍醐寺で大規模な花見を催しました。約1,300人もの大名や公家を招き、桜の下で茶会や能、和歌の会などを行いました。これは秀吉の権力と富の誇示であると同時に、政治的な意味合いも持つ秀吉の生涯最大イベントでした(慶長3年3月)。この2ヶ月後の5月に病に臥し8月に没。
  • 江戸時代(1603-1868年):
      • 花見が庶民の間で広く普及しました。
      • 江戸の名所として、墨堤(隅田川)、上野、飛鳥山、御殿山、小金井堤などが人気の花見スポットとなりました。
      • 松尾 芭蕉(1644年- 1694年)には、桜を詠んだ俳句が20句あるとされています。中には花見の句もあります。たとえば上野で花見に詠んだ句、『四つ五器のそろわぬ花見心哉*
        また故郷の伊賀上野では花見での歌仙の発句 、『木のもとに汁も膾も桜かな**があり、当時花見が流行っていたことが伺えます。
      • 八代将軍徳川吉宗(1684ー1751年)は隅田川の水質保全と水害対策のために向島堤沿いに桜を植樹しました。そこに人々が集まったのが今日の花見に繋がるといわれています。
      • 江戸名所花暦」が出版され、花見の名所が広く知られるようになりました。
      • 後楽園など、大名庭園でも花見が楽しまれました。
      • 新吉原の一本桜も有名な花見スポットでした。
      • 歌舞伎の中でも花見が描かれるようになりました。「仮名手本忠臣蔵」にも花見の場面が登場。六段目に吉良邸での花見の場面があります。ここでは、主君の仇討ちを計画する赤穂浪士たちが、花見の場を利用して密かに会合する様子が描かれています。江戸時代には花見が庶民の間にも広く浸透し、文化的なモチーフとして様々な芸能にも取り入れられるようになりました。

このように時代を追ってみますと、花見は宮中の行事から武士や庶民の間に広まり、しだいに日本の春の風物詩として定着していったことがわかります。

花見の場所も宮中から野外へ、そして都市の公共空間へと広がっていきました。日本の花見文化は、単なる自然鑑賞から始まり、政治的・社会的な機能を持つ行事へと発展し、広く庶民に愛される春の風物詩となりました。

源氏物語、平家物語、仮名手本忠臣蔵などにも花見の場面が登場しています。文学や絵画、芸能にも大きな影響を与えてきました。また、花合(はなわせ)や豊臣秀吉の大規模な花見など、各時代特有の花見の形式は、当時の社会構造や権力関係を反映しています。

芭蕉の句  * ** 

「上野の花見にまかり侍りしに、人人幕打ちさわぎ、物の音、小歌の声さまざまなりける傍らの松陰を頼みて」
四つ五器のそろわぬ花見心哉 * (よつごきの そろわぬはなみ ごころかな)
周りの人々は幕を張って賑やかな花見をやっているのに、芭蕉たちは托鉢僧が持つような四つ五器(御器)すら揃わない質素な花見ですが、それでも十分に堪能しているようです。


木のもとに汁も膾も桜かな **  (
このもとに しるもなますも さくらかな)
汁も膾も(しるもなますも )は直接的には「汁物や刺身」ですが、当時の慣用句で「何もかも、だれもかれも」というような意味があるそうです。

花見の起源 【サ神信仰説の根拠】

花見の起源を稲作文化と結びつける「サ神信仰」説があります。

サ神信仰説は、日本民俗学の父と呼ばれる柳田國男(やなぎた くにお、1875年 – 1962年)が提唱した説です。この説によると、花見の起源は古代の農耕儀礼にあるとされています。

サクラ」という言葉を次のように分析しています。

  • 」:神や精霊を意味するとされる接頭語
  • クラ」:神座(かみくら)、神の座す場所を意味すると解釈

つまり「サクラ」は「神の座す木」という意味になります。
さらに、柳田は稲作に関わる多くの言葉に「サ」という接頭語が使われていることに注目しました。例えば:

  • ツキ(五月):田植えの時期
  • ナエ(早苗):稲の苗
  • オトメ(早乙女):田植えをする若い女性

これらの言葉の存在は、「サ」が農耕や稲作と深い関わりを持つという柳田の主張を支持するものとされました。

サ神信仰説をめぐる議論 新たな視点

しかし、この説には様々な批判や反対意見が存在します。

  • 言語学的な問題:
    「サクラ」の語源については諸説あり、必ずしも「サ」が神を意味するとは限らないという指摘があります。「クラ」を神座と解釈することにも異論があります。
  • 歴史的証拠の不足:
    古代の文献に、サ神を迎える儀式としての花見の明確な記述が見当たらないという問題があります。奈良時代や平安時代の文献に見られる花見の記述と、農耕儀礼との直接的な関連性が薄いという指摘もあります。『万葉集』には約四十首の桜を詠み込んだ歌があるのに、サ神信仰や稲の稔りを占うような歌は一首もない、という指摘があります。
  • 他の起源説との整合性:
    平安時代の貴族文化から発展したとする説など、他の有力な起源説との整合性が取れていないという批判があります。中国からの影響を重視する説との矛盾も指摘されています。
  • 民俗学的方法論への批判:
    柳田の方法論が、現代の事象から過去を推測する「逆推論」に頼りすぎているという批判があります。
    地域による花見の習慣の違いを十分に考慮していないという指摘もあります。
    柳田自身も「仮定・想像」であることを認めています。(『柳田国男全集』二十二、「信濃桜の話」)
  • 桜の種類の問題:
    日本の在来種の山桜ではなく、後世に広まった染井吉野を中心に議論を展開している点に疑問が呈されています。

このように、サ神信仰説は魅力的な仮説でありながら、多くの課題も抱えています。しかし、この説が提起した「花見と古代信仰の関連性」という視点は、日本文化研究に大きな影響を与え続けています。
花見の起源を探ることは、単なる行事の由来を知るだけでなく、日本人の自然観や信仰、社会構造の変遷を理解することにもつながります。これからも新たな発見や解釈によって、私たちの文化理解がさらに深まっていくことでしょう。

  • 参考資料
    柳田國男『日本の祭り』(1942年)
    和歌森太郎『日本民俗学概説』(1947年)
    坂本太郎『日本史の基礎知識』(1966年)
    上野誠『桜と日本人』(2016年)

桜(サクラ)の語源 百花繚乱 & 百家争鳴

話が前後するようですが、ここで桜(サクラ)の語源について、少し触れておきます。サクラの名称の由来には、さまざまな説がありますが、いくつかの興味深い説も交えてご紹介します。

「さくや姫」語源説

古事記や日本書紀など日本神話に登場する美しい女神「このはなのさくやびめ」の「さくや」が「さくら」に転訛したという、「さくや姫」語源説があります。表記は書物により下のように異なります。

『古事記』
和銅5年(712年)
木花之佐久夜毘売
(このはなのさくやびめ)
『日本書紀』
養老4年(720年)
木花開耶姫
(このはなのさくやびめ)
『播磨国風土記』
霊亀元年(715年)頃
許乃波奈佐久夜比売命
(このはなのさくやびめ(のみこと))

表記は他に「木花咲弥姫命」(このはなさくやひめのみこと)などもあります

「木花之佐久夜毘売」という名前には、美しい花が咲く様子と、豊穣を願う気持ちが込められているといいます。分解すれば次の意味合いになります。↓
木花」は「桜の花」を意味し、「」は格助詞「」、「佐久」は「咲く」、花が美しく咲く様子を表しています。「」は間投助詞の「」、「毘売」は「女性」を意味します。
「木花之佐久夜毘売」という名は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」という意味になります。

サ神信仰説

この説は「花見の起源」の項で既出ですが、柳田國男やその高弟、民俗学者、国文学者・折口信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉1887年 – 1953年)らが提唱しています。サクラの「」を「五月」の「」、「早苗」の「」と関連付け、「クラ」を「磐座(いわくら/岩倉/信仰)の「クラ」、「高御座(たかみくら/玉座)の「クラ」と結びつけています。

桜の語源とは直接の関わりはないのですが、折口の桜観について少し触れておきます。折口信夫は、桜を単なる美しい花としてではなく、農作物の豊凶を占う「物の前触れ」として重要視しました。桜の花が咲くことは、その年の収穫を予測する指標であり、花が早く散ることは悪い前兆とされたといいます。桜が持つ象徴的な意味や、古代からの占いの文化に根ざしており、桜が日本人の生活に深く関わっていたことを示しています。

(参考:『折口信夫全集』二「花の話」)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46314_25549.html

学者の、様々な説

    • 歴史学者・和歌森太郎(わかもり たろう、1915年 – 1977年)も「サ神信仰と花見」について言及しています。「サ」は神を意味し、桜の花見が神事や信仰と結びついていたことを示唆しています。(『花と日本人』)
    • 民俗学者の吉野裕子(よしの ひろこ、1916年 – 2008年)は「サ」を「狭」の意味とし、「クラ」を」の意味としています。これは桜の花が密集して咲くことを表現しているという解釈です。
    • 国語学者の大野晋(おおの すすむ、1919年 – 2008年〉は、サクラ「サ」接頭語*で、「クラ」「座」の意味とし、全体で「神の座する所」を意味すると解釈しています。「」という接頭語には、
      1.「神聖さや神秘性を表す」、
      2.「神に関わるものであることを示す」という意味があるとしています。
      接頭語*「サ」:「狭霧 (ぎり)」「皐月(つき)」「さ雄鹿(をしか)」などの語にも同様の「」が使われており、これらも神聖さや神秘性を帯びた存在であると考えられるとしています。

その他の 桜の語源

この他にも・咲簇(咲き群がる/サキムラガル) ・咲麗サキウラ) ・咲麗如木サクウルハシギ) ・咲光映サキハヤ) ・サクル*樹皮が裂けるの意) ・割開サケヒラク)・サキクモル(*桜が咲く頃の花曇りから)、などの語の略、約、転訛だとする説があります。

現在、定説となっているものがどれなのかは存じませんが、以上の説や伝説は、桜が日本文化において、神話、宗教、農耕文化、美意識など、多様な側面と結びついていることを示しています。桜は日本人の精神性や文化的アイデンティティと深く結びついた象徴的な存在であることは確かでありましょう。

漢字の「桜」と「櫻」

サクラを表す漢字「」の旧字は「」です。偏に「」を組み合わせた形です。木偏は木や植物を示し、「嬰」は「赤ん坊」や「抱く」という意味が辞書に載っていますが、ここでは音(「オウ」や「エイ」)を表すために使われています。日本固有の植物であるサクラ*を表すために、中国の既存の漢字「櫻」を転用したものです。

「櫻」の簡略化した字体「桜」は鎌倉時代あたりから使われたようですが、江戸時代に「桜」の使用が増加し、一般的になっていきました。もちろん「櫻」の使用は続いていました。

中国でも「」( 簡体字:樱 )は桜を意味しますが、その用法は日本とはすこし異なります。「櫻」は主に「櫻桃」(さくらんぼやチェリーに近い)を指す事がいまは多いようです。「櫻花」という言葉で日本のサクラに相当する花を指すこともありますが、これは比較的新しい用法かも知れません。

上で、「日本固有の植物であるサクラ*と申しましたが、中国原産のサクラの種類には、緋桜、山桜、寒桜などがあります。これらは日本のサクラとは異なる種類で、花の形や咲き方が違うようです。中国にも古代から、自生のサクラの仲間は存在していましたが、日本ほど広く栽培されたり文化的に重視されたりすることはありませんでした。中国で桜が注目されるようになったのは比較的近年になってのことで、日本文化の影響を受けた面があるようです。

 

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